「守」とは誰か?尾張国府を探す
◎調査課の永井邦仁です。
9 月30 日(日)に、愛知県陶磁資料館において、「あいち考古学セミナー」が開催されます。そのセッションのひとつに「塔の越遺跡と尾張国府」があります。塔の越遺跡は稲沢市に所在し、古墳時代から平安時代前期までの古墳と掘立柱建物と井戸が多数検出されたことで注目される遺跡です。そしてタイトルにもあるように、古代の尾張国府との関連が注目される遺跡でもあります。
そこで、遺跡の性格を示す遺物として取り上げたいのが、底部外面に「□守」と刻書された須恵器です。窯場で焼かれる前にヘラで書かれたものです。「□」は判読できない文字なのですが、その下にある「守」は明瞭で、そこから想定されるのは国司の長官である守(かみ)ではないでしょうか。つまり、この須恵器は尾張国の守専用に焼かれた器であり、その所在を示すものと考えられます。
尾張国の守といえば、地元民に訴えられた藤原元命(もとなが)や赤染衛門の夫である大江匡衡(まさひら)が有名ですが、いずれも10 世紀後半から11 世紀初めに赴任した人です。須恵器は共伴遺物も含めて8 世紀前半のものと考えられるので、これらの有名人とは関係がありません。
しかし塔の越遺跡では、上記したように8 世紀の奈良時代を中心とする掘立柱建物群やそれを囲む溝が検出され、8 世紀前半に限っても建物と井戸が機能していたことが判明しています。この時代、井戸がある建物群は、一般の集落ではあまりみられないことから、ここが特別な施設であったことを示しています。それでは特別な施設、となると尾張国府の一角でありかつ尾張国守の関係する国府施設を想定するのも一案でしょう。それには国府の中枢である国庁ととも官舎である守館がありますが、建物の配置や規模からすると国庁とするのは難しそうです。そこで今回発掘調査された地点は、奈良時代から平安時代前期の守館の一部だったのではないかと推測しています。
▲写真2:8 世紀前半の塔の越遺跡と「□守」刻書須恵器出土位置
それでは、藤原元命たち平安時代の国司が居た国庁や守館はどこにあるのでしょうか。それが、これまで尾張国府跡とされている尾張大国霊神社(国府宮)のある三宅川右岸の一帯と考えられます。稲沢市教育委員会による発掘調査では、塔の越遺跡に後続する9 世紀後半以降の灰釉陶器や緑釉陶器が多数出土しています。
これからは、塔の越遺跡などの三宅川左岸の遺跡も含めて、古代の尾張国府を検討していく必要があるといえます。