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愛知県埋蔵文化財センター  - 公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団

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my weblog : 201208

8/31/2012

「守」とは誰か?尾張国府を探す

Filed under: - palace @ 8:45 am

◎調査課の永井邦仁です。

 9 月30 日(日)に、愛知県陶磁資料館において、「あいち考古学セミナー」が開催されます。そのセッションのひとつに「塔の越遺跡と尾張国府」があります。塔の越遺跡は稲沢市に所在し、古墳時代から平安時代前期までの古墳と掘立柱建物と井戸が多数検出されたことで注目される遺跡です。そしてタイトルにもあるように、古代の尾張国府との関連が注目される遺跡でもあります。

 そこで、遺跡の性格を示す遺物として取り上げたいのが、底部外面に「□守」と刻書された須恵器です。窯場で焼かれる前にヘラで書かれたものです。「□」は判読できない文字なのですが、その下にある「守」は明瞭で、そこから想定されるのは国司の長官である守(かみ)ではないでしょうか。つまり、この須恵器は尾張国の守専用に焼かれた器であり、その所在を示すものと考えられます。

須恵器
▲写真1:「□守」刻書のある須恵器

 尾張国の守といえば、地元民に訴えられた藤原元命(もとなが)や赤染衛門の夫である大江匡衡(まさひら)が有名ですが、いずれも10 世紀後半から11 世紀初めに赴任した人です。須恵器は共伴遺物も含めて8 世紀前半のものと考えられるので、これらの有名人とは関係がありません。

 しかし塔の越遺跡では、上記したように8 世紀の奈良時代を中心とする掘立柱建物群やそれを囲む溝が検出され、8 世紀前半に限っても建物と井戸が機能していたことが判明しています。この時代、井戸がある建物群は、一般の集落ではあまりみられないことから、ここが特別な施設であったことを示しています。それでは特別な施設、となると尾張国府の一角でありかつ尾張国守の関係する国府施設を想定するのも一案でしょう。それには国府の中枢である国庁ととも官舎である守館がありますが、建物の配置や規模からすると国庁とするのは難しそうです。そこで今回発掘調査された地点は、奈良時代から平安時代前期の守館の一部だったのではないかと推測しています。

位置
▲写真2:8 世紀前半の塔の越遺跡と「□守」刻書須恵器出土位置

 それでは、藤原元命たち平安時代の国司が居た国庁や守館はどこにあるのでしょうか。それが、これまで尾張国府跡とされている尾張大国霊神社(国府宮)のある三宅川右岸の一帯と考えられます。稲沢市教育委員会による発掘調査では、塔の越遺跡に後続する9 世紀後半以降の灰釉陶器や緑釉陶器が多数出土しています。

 これからは、塔の越遺跡などの三宅川左岸の遺跡も含めて、古代の尾張国府を検討していく必要があるといえます。


8/29/2012

埋文展こぼれ話(その6)

Filed under: - palace @ 8:45 am

◎調査課の臨時調査員 うつけ博士です。

現在、愛知県陶磁資料館では、9月30日まで埋蔵文化財展「戦国のあいち」展を開催しています。今回は「信長を生んだ戦国尾張」のコーナーの隠れた見所の紹介の第6回目で、前回と同様に「後期清須」の話題をしたいと思います。

 「下津」から「清須」・「岩倉」・「小牧」を経て、初めて近世的な城郭に至った「後期清須城」では、城郭に石垣や瓦葺き建物が構築されました。特に、本丸や北の丸(北曲輪)を囲む堀からは、全部で10数トンにも及ぶ大量の瓦が出土しており、城郭には総瓦葺きの立派な建造物が建っていたことが想像されます。今回はこの瓦についてお話ししましょう。

 後期清須城の建物は本瓦葺きの屋根でした。本瓦葺きとは丸瓦と平瓦の2種類を交互に並べて屋根面を作る葺き方のことです。軒先には文様を持つ軒丸瓦と軒平瓦が用いられ、文様の部分に金箔が施されたりしました。文様にはいくつかのパターンがあって、写真1の軒平瓦(H102型式)のように中心に桐が表現されたり、写真2の軒平瓦(H111型式)のように中心に3つの葉が表現されたりしました。

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▲写真1:軒平瓦H102型式(桐紋に4反転均整唐草紋)の瓦当面の文様

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▲写真2:軒平瓦H111型式(三子葉紋に3反転均整唐草紋)の瓦当面の文様

 さて、今回注目したいのは写真2の軒平瓦H111型式です。この瓦は、右端の上面に土手のような突起があり、奥に向かい緩やかに蛇行しています(写真3と写真4)。この突起は「水返し(または水切り)」と呼ばれるもので、軒平瓦を斜めに葺いた時に側面から水があふれ出ないように工夫したものです(図1)。

上面
▲写真3:軒平瓦H111型式の上面全体

水返し
▲写真4:軒平瓦H111型式の水返し

水返し
▲図1:水返しのしくみ

 普通に葺いた場合は「水返し」は無くても全く問題ありませんが、「水返し」があれば少々無茶な葺き方をしても大丈夫なわけです。おそらく「水返し」を持つ軒平瓦は屋根面の側面に当たる破風などに使用されたものでしょう(写真5)。

西尾城丑寅櫓
▲写真5:西尾城丑寅櫓

 こうしたより装飾的な屋根を作ることを可能にした「水返し」を持つ軒平瓦は、清須城本丸から出土した軒平瓦全17種の中で5種類しか存在しません。破風などに使用された瓦は、限られた種類(軒先の文様)に絞られていたのです。

 このように瓦を詳細に調べていくと、清須城の城郭建築が複雑な屋根構造を持ち、瓦も文様ごとに計画的に葺かれていったことが想定されるようになるのです。

 「戦国のあいち」展では、結構立派な城郭建築があったと推測させる瓦群の一部が展示されていますので、ぜひ、自分の目でじっくりと観察してみてください。(文責 鈴木正貴)



8/27/2012

高校生の発掘体験

Filed under: - palace @ 8:45 am

熱田高等学校の皆さんが発掘体験に来ました!

◎調査課の蔭山です。
 先日(8月7日の火曜日)、熱田高等学校物理部の皆さんが、豊田市下山にある猪移り遺跡に体験発掘に挑戦しました。体験発掘を行ったのは、猪移り遺跡のB 区で、縄文土器や石器が堆積した谷の地点です。高校生の皆さんは、暑い日にもかかわらず、少しずつていねいに掘りながら、縄文土器や石器が見つかるごとに、歓声をあげて楽しく発掘をしました。

体験

体験
▲写真 猪移り遺跡の体験発掘の様子
 *縄文土器や石器が出土しました。



参加者募集中!

 来月の9月9日(日曜日)には、当センター主催の『歴史発掘探検』の体験発掘も行われます。
8月31日が申し込みの締め切りで、定員の残りは少なくなっています。皆様、是非『歴史発掘体験』にお越し下さい。


8/22/2012

東下地遺跡 調査速報

Filed under: - palace @ 8:45 am

◎調査課の永井邦仁です。
 豊橋市野添遺跡の範囲確認調査を終了した調査チームは、7 月に東下地遺跡の発掘調査を実施しました。野添遺跡は標高約27m の台地上に立地するのに対し、東下地遺跡は神田川沿いの低地にあるため標高は約17m です。同遺跡は、昨年度10,630 平方メートルを発掘調査し、中世の遺構や、弥生時代から古墳時代と考えられる水田遺構を確認しました。
 今年度はその北端の小さな調査区が対象です。

調査区
▲写真1:今年度の調査区

 今年度検出できたのは、北東から南西方向にのびる溝状遺構1 条と、それに隣接する水田遺構です。東下地遺跡の基盤層は礫層ですが、その上に堆積した粘土層上面でこれらの遺構が検出されました。画像でもわかりますが、これらは砂利のような礫(溝状遺構)あるいは粗い砂の混じった粘土(水田遺構)で埋まっていました。おそらく洪水によって埋もれてしまったものと考えられます。

溝
▲写真2:溝状遺構の検出状況(北から)

 溝状遺構を掘削すると、実に凹凸が激しく、どちらかといえば自然河道のような遺構です。問題はその時期なのですが、土師器の小片は出土するが須恵器や山茶碗などの古代以降の遺物が含まれていないことから、古墳時代前期から中期までに埋没したものと推測しています。

溝
▲写真3:溝状遺構の完掘状況(北から)

 実は、南側に位置する昨年度の調査区でも、小区画の水田に隣接して溝状遺構が検出されており、ほぼ今回調査したものの延長であるとみられます。これが確認できたことにより、台地の崖近くまで耕作地化が進んでいたことが明らかになりました。


8/20/2012

埋文展こぼれ話(その5)

Filed under: - palace @ 8:45 am

◎調査課の臨時調査員 うつけ博士です。

現在、愛知県陶磁資料館では、9月30日まで埋蔵文化財展「戦国のあいち」展を開催しています。今回は「信長を生んだ戦国尾張」のコーナーの隠れた見所の紹介の第5回目になります。

 「信長を生んだ戦国尾張‐発掘された尾張守護所‐」では、「下津」から「清須」・「岩倉」を経て「小牧」に至るまでの尾張の中心的な都市の変遷を展示しており、最終的には織田信雄が改修した「後期清須」までを紹介しています。特に、後期清須城は、城郭に石垣や瓦葺き天守を備えた近世的な城郭として位置づけられるものです。

 この清須城では、石垣が4ヶ所で発見され、崩落した巨石など石垣の痕跡を示すものまで含めると全部で6ヶ所見つかっています。そのうち、1994 年に発掘調査された本丸東辺部の発掘調査(94A 区)では、内堀と石垣が発見されました。そこは、ちょうど東辺の出入り口の北端部に相当する場所です(写真1)。

調査区
▲写真1:清洲城下町遺跡 94A区

 この調査では、本丸東辺を防御する石垣の一部とその基礎構造が発見されました。石垣は最大で2段積まれていましたが、本来はもっと高くそびえていたでしょう(写真2)。

石垣
▲写真2:清洲城下町遺跡 石垣

 石垣の下部は、軟弱な地盤に対応するため土台木が平行に4列並べられていました(写真3)。本来は「戦国のあいち」展で再現したように井桁状に組むべきところですが、なぜかここでは並列した状態で置かれていました。

土台木
▲写真3:清洲城下町遺跡 土台木

 問題は、この土台木の下です。土台木を取り外すと、この土台木に平行する形で一本の縄が置かれていることが確認されました(写真4)。土台木を据えるための目印にしたものでしょうか。

縄
▲写真4:清洲城下町遺跡 縄

 城を構築する時の基本設計のことを「縄張(なわばり)」と呼びますが、まさに城を普請する最初の段階に、本当に縄が張られていたことが、この調査結果から分かりました。
「戦国のあいち」展では、この清須の「縄張りの縄」の一部が展示されていますので、ぜひ、自分の目で確かめてみてください。(文責 鈴木正貴)



8/9/2012

埋文展こぼれ話(その4)

Filed under: - palace @ 1:55 pm

◎調査課の臨時調査員 うつけ博士です。

現在、愛知県陶磁資料館では、9月30日まで埋蔵文化財展「戦国のあいち」展を開催しています。今回は「信長を生んだ戦国尾張」のコーナーの隠れた見所の紹介の第4回目になります。

「信長を生んだ戦国尾張‐発掘された尾張守護所‐」では、尾張国の中心的な都市だった「下津」・「清須」・「岩倉」・「小牧」などを紹介しています。その内容は、それぞれの都市に建ち並ぶさまざまな屋敷の位置や形を想定復元し、そこから出土した特徴的な遺物を展示しています。

 各都市には、武家屋敷や寺院ばかりではなく、商人や職人が活躍した場所もありました。その活動の証拠を見出すことはなかなか難しいのですが、金属製品を加工する職人については、その産業廃棄物が現在まで残るためにその様子を知ることができます。

金属製品を加工する時は、高温に熱して素材を柔らかくして作業します。その際に、素材に含まれる不純物が排出されたり、炉の粘土が溶けたりします。そうした不純物が冷却して固まったものを滓(さい:鉄の場合「鉄滓」)と呼ばれています。発掘調査では、炉の凹んだ部分に溜まる椀型鉄滓(わんがたてっさい:写真1)が見つかることがよくあります。
椀型鉄滓
▲写真1:椀型鉄滓(わんがたてっさい)

 鉄製品の加工方法は、刃物など鉄素材を叩いて鍛える鍛造(たんぞう)と鋳型に流して成形する鋳造(ちゅうぞう)に大きく分けられます。ここでは、鍛造について説明してみましょう。

 鍛造(いわゆる鍛冶)の場合は、金床石(かなとこいし:写真2)に熱した鉄素材を置いて金槌で叩いて作業しますが、その時に独特の産業廃棄物が発生します。素材の表面についた滓が叩くことにより薄く剥がれた鍛造剥片(たんぞうはくへん:写真3)や、叩くことによって飛散した液体状の滓が空中で冷えて球状に固まった粒状滓(りゅうじょうさい:写真4)がその例です。写真の1目盛りが0.5mmなので、非常に小さい微小遺物であることがわかると思います。

金床石
▲写真2:金床石(かなとこいし)

鍛造剥片
▲写真3:鍛造剥片(たんぞうはくへん)

粒状滓
▲写真4:粒状滓(りゅうじょうさい)

 「下津」・「清須」・「小牧」では、こうした微小遺物が発見されていますが、特に「小牧」ではおびただしい量の鍛造剥片が発見されました。実質4年程度しかその役割を果たさなかった小牧では、かなり集中的にに金属加工が行われたことが分かります。

「戦国のあいち」展では、この小牧の大量の鍛造剥片が展示されていますので、ぜひ、その多さを自分の目で実感してみてください。(文責 鈴木正貴)



8/3/2012

埋文展こぼれ話(その3)

Filed under: - palace @ 1:30 pm

◎調査課の臨時調査員 うつけ博士です。

7月28日から9月30日まで愛知県陶磁資料館にて埋蔵文化財展「戦国のあいち」展を開催します。ここでは、その中の第1 展示部門「信長を生んだ戦国尾張‐発掘された尾張守護所‐」の隠れた見所を紹介していますが、今回はその第3 回目です。

今回は岩倉城跡から出土した木製獅子頭について、報告します。この木造獅子頭は、岩倉城跡の本丸の中にある区画溝から出土しました。岩倉城跡が落城した永禄2年(1559)ころに埋まったものと思われます。大量の土師器の皿や木製品とともに出土し、武家の祭祀が行われた痕跡だと考えられています。

 私は始め、この獅子頭は玩具(おもちゃ)かと考えていました。しかし、中世の木造獅子頭の研究を進めていくうちに、この獅子頭は小さいものの、当時の獅子頭の特徴を良く写したものであることが分かりました。きっと戦国時代の岩倉城で行われた儀式で重要な役目を果たしていたのでしょう。(文責 蔭山誠一)

出土状況
▲写真1:獅子頭の出土状況
 小さいけれど迫力がありますね。

しし
▲写真2:展示されている獅子頭
獅子頭の上顎の前にある抉りは大きな鼻を表現しています。後ろの抉りには黒色に墨が残っていて、眼を表現しています。大きな口と鼻で、威嚇していたのでしょうか?頭の部分には、耳がついたと思われる2つの小さな穴があります。頭の上にある黒い部分は何を表現しているのでしょうか?上顎と下顎を竹ひごでつないで、動かせるように工夫されています。

夏山八幡宮
▲写真3:夏山八幡宮の獅子頭
永禄元年(1558)に製作されたという墨書が残る岡崎市(旧額田町)夏山町にある夏山八幡宮所蔵の木造獅子頭です。扁平な形で丸みを帯びた頭の形がよく似ています。この獅子頭の頭の上にも両耳を入れたほぞ穴と、その間に何かを入れたほぞ穴が残っています。大きさは長さ35.4cm、幅28.0cm、高さ17.9cm です。

夏山八幡宮2
▲写真4:夏山八幡宮の獅子頭正面
夏山八幡宮の獅子頭は正面から見ると鼻と口しかみえません。岩倉城跡出土の獅子頭とそっくりです。

*夏山八幡宮所蔵の木造獅子頭の調査に際しては、夏山八幡宮宮司藤田賢一氏のご高配を頂いた。厚く御礼申し上げます。

岩倉正面
▲写真5:夏山八幡宮の獅子頭正面
岩倉城跡出土の獅子頭も正面から見ると、鼻と口しかみえません。



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