埋文展こぼれ話(その5)
◎調査課の臨時調査員 うつけ博士です。
現在、愛知県陶磁資料館では、9月30日まで埋蔵文化財展「戦国のあいち」展を開催しています。今回は「信長を生んだ戦国尾張」のコーナーの隠れた見所の紹介の第5回目になります。
「信長を生んだ戦国尾張‐発掘された尾張守護所‐」では、「下津」から「清須」・「岩倉」を経て「小牧」に至るまでの尾張の中心的な都市の変遷を展示しており、最終的には織田信雄が改修した「後期清須」までを紹介しています。特に、後期清須城は、城郭に石垣や瓦葺き天守を備えた近世的な城郭として位置づけられるものです。
この清須城では、石垣が4ヶ所で発見され、崩落した巨石など石垣の痕跡を示すものまで含めると全部で6ヶ所見つかっています。そのうち、1994 年に発掘調査された本丸東辺部の発掘調査(94A 区)では、内堀と石垣が発見されました。そこは、ちょうど東辺の出入り口の北端部に相当する場所です(写真1)。
この調査では、本丸東辺を防御する石垣の一部とその基礎構造が発見されました。石垣は最大で2段積まれていましたが、本来はもっと高くそびえていたでしょう(写真2)。
石垣の下部は、軟弱な地盤に対応するため土台木が平行に4列並べられていました(写真3)。本来は「戦国のあいち」展で再現したように井桁状に組むべきところですが、なぜかここでは並列した状態で置かれていました。
問題は、この土台木の下です。土台木を取り外すと、この土台木に平行する形で一本の縄が置かれていることが確認されました(写真4)。土台木を据えるための目印にしたものでしょうか。
城を構築する時の基本設計のことを「縄張(なわばり)」と呼びますが、まさに城を普請する最初の段階に、本当に縄が張られていたことが、この調査結果から分かりました。
「戦国のあいち」展では、この清須の「縄張りの縄」の一部が展示されていますので、ぜひ、自分の目で確かめてみてください。(文責 鈴木正貴)
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