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愛知県埋蔵文化財センター  - 公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団

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my weblog : 201501

1/27/2015

美浜町 権六遺跡(ごんろくいせき)の調査速報

Filed under: - palace @ 11:55 am

◎調査員の蔭山です。

10月中旬から知多郡美浜町大字野間字権六の権六遺跡の発掘調査をしています。4つの調査区に分けて調査を進めています。前半の2つの調査区の調査が終了したので、その成果を報告します。


▲[画像1]名鉄野間駅からみた調査前の権六遺跡(南東から)

権六遺跡は、名鉄内海新線野間駅から北東約100m の山裾にあります。
調査区は、東西に細長く連なっています。


▲[画像2]一番西側の調査区(14A 区)の全景(西より)


▲[画像3]14A 区南側でみつかった溝群(西より)

14A 区では、江戸時代後期以後の自然流路と、南北方向と東西方向にはしる溝が10 条程みつかりました。溝は、平安時代末〜鎌倉時代のものと江戸時代のものがあると考えられます。


▲[画像4]千人塚の南西にある14B 区の全景(北西から)

14B 区の調査区では、500 基を越える土坑や柱穴、溝がみつかりました。主な遺構は、平安時代末から鎌倉時代の掘立柱建物1 棟、竪穴建物1 棟、柱穴列4 条、江戸時代後半の井戸1 基です。


▲[画像5]柱穴列の柱穴105SK

14B 区の柱穴の一つを半分に断ち割り、断面を調べた時の写真です。中央に木材が残っていました。


▲[画像6]14B 区の掘立柱建物
(東より、手前にある大型の土坑は、江戸時代後期の井戸)

この掘立柱建物は、桁行3間、梁行1 間の東西棟の建物です。この建物に関わる柱穴は、柱穴列のものより大型でした。


▲[画像7]竪穴建物(東より)

この竪穴建物は、柱穴列の南に確認できました。長辺2.7m、短辺1.6m、深さ10cm で、比較的小さな建物です。この竪穴建物周辺は、先の掘立柱建物の周辺と異なり、柱穴や土坑、溝などがたくさん密集していました。写真奥に見える十字の土手に残している部分は、カマドです。


▲[画像8]竪穴建物の西壁中央部分にあったカマド(東より)

カマドの拡大写真です。十字の土手を残して、橙色に焼けた土の上面まで掘ったときのものです。写真奥側の飛び出た部分は、カマドの煙道だと考えています。


1/19/2015

キジ山古墳群を歩く(5)

Filed under: - palace @ 11:18 am

◎調査課の永井邦仁です。

先回(4)で紹介したように、キジ山古墳群のある丘陵頂部に立地する巨岩周辺では、古墳が検出されていません。そこからしばらく下ったところでようやく13号墳や34号墳の墳丘があらわれます。
さて、34号墳の脇では小さな調査区(KJ10B区)を設定し、墳丘裾部や周溝の調査を実施しました。


▲[画像1] キジ山34号墳とKJ10B区の位置


▲[画像2]北からみたKJ10B区全景とキジ山34号墳

34号墳の墳丘はわずかな高まりが残っているだけで石室の残存状況もわかっていません。しかしKJ10B区では、周溝とその堆積から須恵器甕の破片数点を検出することができました(画像2の小礫が集中しているあたりです)。本来の墳丘は現状でみえているものより一回り大きかったものと考えられます。


▲[[画像3]KJ10B区測量作業風景

こうして検出遺構を測量して完了、といきたかったのですが、「地山」が今ひとつはっきりしないのです。そもそも傾斜地なのに平らな面が広すぎるのです。そこでトレンチさらに掘り下げて土の変化を調べてみました。


▲[画像4]地山を切り出して平坦面を造成したと考えられる土層

すると、古墳の北側で築造前の「地山」が検出されました。しかもそれは斜めに切り込まれた後に礫混じりの土で一気に埋まっていました。周溝を検出した「地山」はこの礫混じり層の上面だったのです。また別のトレンチでは、礫混じり層の下で岩盤が急激に西側へ落ち込んでいる状況もみることができました。つまり、もともと南と西へ傾斜していた地形を造成して、古墳の基礎をつくっていたのです。古墳づくりは石室や墳丘だけではないんですね。


1/5/2015

栗狭間遺跡 調査速報

Filed under: - palace @ 2:28 pm

◎調査課の鈴木恵介です。

 栗狭間遺跡の発掘調査は、最終のB 区での調査を続行中です。今回の報告では、栗狭間遺跡の中でも古い時代の縄文時代についての特集です。
 栗狭間遺跡の発掘調査は、谷間の広い面積を調査したので、縄文時代の土器、石器が含まれる包含層の範囲がおおよそ把握できました。

 写真↓の部分では、縄文時代早期の押型文土器( 約8000 年前) が見つかりました。( 下の写真の土器)。線で囲まれた部分には縄文時代晩期( 約3000 年前) の条痕文土器、石器が多く見つかっています。山の土質が柔らかいため、流された土器、石器が谷に溜まっていると考えています。

 縄文時代晩期の土器、石器は黄色の土から、縄文時代早期の土器は黒い土から出土します。


▲押型文土器


▲条痕文土器( 約3000 年前) の発掘状況


▲チャート製 石匙ーいしさじー( 縄文時代)


▲サヌカイト製? 石匙( 縄文時代)


▲安山岩製 石匙( 縄文時代)


▲黒曜石製 剥片ー はくへんー( 縄文時代) 縦およそ2cm


▲黒曜石製 剥片 ( 縄文時代) 縦およそ2cm


▲黒曜石製 剥片 ( 縄文時代) 縦およそ3cm


▲黒曜石製 石鏃( 縄文時代) 縦およそ2cm


▲下呂石製 石鏃( 縄文時代) 縦およそ2cm


▲チャート製 石鏃( 縄文時代) 縦およそ3cm


▲下呂石製 スクレイパー?( 縄文時代) 縦およそ5cm


▲天狗棚(設楽町)の黒曜石? ( 縄文時代)幅およそ5cm


▲凝灰岩 石器素材( 縄文時代)縦およそ20cm


▲馬見塚(まみづか)式土器( 縄文時代晩期後半) 幅およそ20cm


▲圧痕のある土器底部( 縄文時代晩期) 幅およそ 10cm


▲条痕文土器( 縄文時代晩期) 幅およそ 5cm


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