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愛知県埋蔵文化財センター  - 公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団

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my weblog : 201107

7/19/2011

寄島遺跡 調査速報 その2

Filed under: - palace @ 9:26 am

◎調査課の永井邦仁です。

 安城市小川町に所在する寄島遺跡では、梅雨も明けて連日発掘調査進行中です。今回は、平安時代後期と考えられる、黒色土層上面で検出された集落遺構について報告します。

全部
▲今年度の発掘調査区

 発掘調査は、北からA〜C区に区分して進めています。平安時代の竪穴建物はC区で検出されました。なお、A区からB区にかけて、自然流路(川)か大きな溝と考えられる遺構が検出されつつあります。詳細は後日お知らせします。

C区
▲C区で検出された主な遺構

 C区では、一辺が7m以上ある大型の竪穴建物1棟と、3〜5m規模の小型の竪穴建物5棟以上が検出され、それらに重複して南北にのびる溝が検出されました。

溝
▲竪穴建物と溝の重複部分

 土層の観察から、溝(SD)が竪穴建物の埋土を掘り込んでいることがわかりました。竪穴建物(037SI)の埋土は、建物の基礎ともいうべき床面より下の部分のみが残っていました。そこからは灰釉陶器が出土しています。一方、溝からは山茶碗などの鎌倉時代以降の遺物が出土していることから、建物の時期が平安時代後期(11〜12世紀)であると考えられます。


7/13/2011

車塚遺跡 調査速報 その1

Filed under: - palace @ 9:14 am

◎調査課の池本です。

 岡崎市岩津町に所在する車塚遺跡では、県道建設に伴う発掘調査を6月から8月までの予定で実施しています。今年度調査区はA〜C区の三地区が予定されています。
 このうちB区は近世と考えられる溝を確認しました。この調査区は面積も狭いため、すでに終了しています。

遠景
▲B区

 現査中のC区は、昨年度に7世紀代の古墳が8基検出されたエリアの西側に位置します。現在は包含層の掘削をほぼ終了した段階で、石室の石材の可能性を持つ石が集中する部分も確認しています。昨年度調査区に続き、古墳の基底部を確認できるかもしれません。
石
▲C区 古墳の石室でしょうか?


7/7/2011

愛知県新城市中山砦跡出土の鉄鏃

Filed under: - palace @ 5:11 pm

◎調査課の蔭山誠一です。

 今回は昨年の夏に当センターにて発掘調査を行った中山砦跡から出土した鉄鏃について紹介します。

●中山砦跡について
 中山砦跡は新城市乗本に所在する遺跡で、標高100m から120m の東西にのびる丘陵上にあります。天正元年
(1572)、徳川家康が長篠城を攻めた際に、南に位置する久間山砦とともに築き、天正三年(1574)の長篠合戦の
際には、武田軍により使われた乗本五砦の一つにもなりました。

遠景
▲調査区遠景

長篠城
▲中山砦跡からみた長篠城跡

発掘調査では、戦国時代と考えられる堀切1条と堀切に伴う土塁1基が確認できました。出土遺物は今回紹介する鉄鏃1点のみであり、10A 区として調査した南側丘陵北斜面にて発見できました。

●発見された鉄鏃について
 鉄鏃は平根形のもので、基部が折れていますが、長さ10.4cm 以上、刃幅2.0cm、刃の長さ5.5cm あるものでした。
 類例は愛知県清須市朝日西遺跡(清洲城下町遺跡の北東部にあたります)から16 世紀末頃の同様な鉄鏃が出土
していますが、戦国時代の遺跡等からの鉄鏃の出土例は少なく、同じ形態を持つものは他の地域で現在のところ確認できていません。織田・徳川軍と戦った武田氏の勢力範囲であった長野県矢出原では多数の中世から戦国時代の鉄鏃が出土していますが、同じ形態のものは出土していません(中村龍雄・土屋忠芳・青木孝志1983『先土器シリーズ水晶考古学(野辺山遺跡群)』参照)。

出土状態
▲鉄鏃出土状況

朝日西遺跡
▲朝日西遺跡出土鉄鏃 実測図

中山砦跡
▲中山砦跡出土鉄鏃 実測図

●まとめ
 今回紹介する鉄鏃の出土はこれまで絵図や古文書などの歴史資料から伝えられていた中山砦について、当時の戦いについての証拠となる貴重なものです。
 中世の鉄鏃について、有職故実の研究から推定される中世の鉄鏃の分類は、狩猟用の野矢(狩矢)と軍陣用の征矢(せいや)に大別され、矢じりの形から野矢では雁又(狩俣、かりまた)と尖根(とがりね、尖矢)に分かれ、尖根のものは平根(ひらね)と腸抉(わたぐり)のあるタイプがあります。雁又タイプの鏃は鏑矢(かぶらや)として宮廷儀礼の騎射やそれを継承した武士の流鏑馬(やぶさめ)になどに使われ、平根のタイプも鏑矢に使われることがありました。征矢は柳刃のタイプと丸根のタイプがあり、軍陣用の実践タイプの矢じりと考えられています。また鏑矢は軍陣では、征矢の表差(うわざし)として、2隻を征矢の差し添えの矢として加え、戦闘の最初に射合う嚆矢とするようです。このような中世の矢の装備は京都府法住寺殿跡武将墓南西部出土鉄鏃群との組成と対応するものです(中澤克昭2006「居館と武士の職能−出土鉄鏃と狩猟をめぐって−」『鎌倉時代の考古学』高志書院、寺島孝一・片岡肇編1984『平安京跡研究調査報告』第13 輯、古代学協会参照)。
 これまでの研究成果を援用すると、中山砦跡出土の鉄鏃は長篠城跡の周辺でみつかっている戦国時代の征矢と考えられる鎬がある丸根タイプの鉄鏃と同様に実戦において使われた可能性が高いものであり、また一つ可能性として戦闘の最初に射合わされた嚆矢であった可能性もあります。
 今回紹介した鉄鏃は、『信長公記』巻八の「三州長篠御合戦の事」に述べられる天正三年(1574)「五月廿一日 辰刻(たつのこく)、取り上げ、旗首(きしゅ)を推し立て、凱声(ときのこえ)を上げ、数百挺の鉄炮を口童(どつ)と、はなち懸け、責め衆(武田軍のこと)を追い払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋小屋を焼き上ぐ。」(桑田忠親校注1965『改訂信長公記』株式会社新人物往来社より)とある織田・徳川軍の鳶の巣山砦をはじめとする乗本五砦攻撃の一場面に使われた鉄鏃であった可能性が高いものです。

中山砦跡
▲中山砦跡出土鉄鏃


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