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愛知県埋蔵文化財センター  - 公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団

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my weblog : 201211

11/30/2012

栗狭間遺跡(くりはざま)遺跡の調査速報 その3

Filed under: - palace @ 11:06 am

『栗狭間遺跡の落とし穴がみつかった!』

 ◎調査課の蔭山です。

 豊田市下山地区にある栗狭間遺跡です。前回紹介しました川の東側丘陵部分D区を10月に調査しました。その結果、丘陵の裾部の緩斜面で動物を捕らえるためと思われる落とし穴(土坑)が2基みつかりました。

D
▲写真1:栗狭間遺跡D区遠景(南西より)
 落とし穴は調査区中央部の緩斜面と東壁の位置にみつかりました。
 前回紹介した調査区は写真の発掘調査区の右下側(南西側)です。

006SK
▲写真2:落とし穴006SKの断面です、真っ黒な土で埋まっていました。
 穴は、直径0.6m、深さ0.7mです。落とし穴の上部は、後世の流土により失われていました。

006SK完
▲写真3:落とし穴006SKの完掘状況です、下から小さいピット(穴)が 5つみつかりました。
 中央の穴が深くなっています。

013SK
▲写真4:東壁にみつかった013SKです。
 006SKとほぼ同じ大きさの穴です。同様に真っ黒な土で埋まっていました。穴の底には小さいピットが2つあるようです。本来の落とし穴は、直径が約1.5m程、深さは約2m程の大きさの穴と考えています。そして底には棒状の仕掛けがあり、その仕掛けの痕跡が小さなピットであると考えています。

東壁
▲写真5:東壁の断面です。
 落とし穴006SKは下から2層目の堆積が溜まるやや凹地状のところにあり、山の斜面に5m程離れた位置で並んでみつかりました。

 落とし穴の時代は、土坑の中からは出土遺物がなく、時期を特定できません。しかし、落とし穴の上に堆積していた堆積から縄文時代前期後半頃の土器が出土しているので、その前後の時期の遺構と考えられます。

 この落とし穴は落とし穴のみつかった丘陵の頂部に住んでいた人々が残したものでしょうか、それとも別の場所に住んでいた人が動物を捕まえるために仕掛けたワナであったのでしょうか?今回の調査成果も、当時の人々の営みを考える上で貴重な成果になっていくものと思われます。


11/28/2012

愛知県陶磁資料館南館の展示変え

Filed under: - palace @ 8:54 pm

 今日、瀬戸市にある愛知県陶磁資料館 南館2階 こども考古学研究室の「堀りたての土器・洗いたての石器」コーナの展示替えを実施してきました。今回展示を行ったのは、以下の4つの遺跡です。

日置本郷B遺跡[へきほんごうびーいせき](愛西市)
塚原1号窯跡[つかはらいちごうかまあと](瀬戸市)
柿下遺跡[かきしたいせき](新城市)
惣作遺跡[そうさくいせき](安城市)

 縄文時代、古墳時代、古代、中世といろいろな地域のいろいろな時代の遺物を展示しました。是非一度、ご覧に来てください。

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11/15/2012

鹿乗川の橋と遺跡をめぐる(10)

Filed under: - palace @ 8:45 am

◎調査課の永井邦仁です。

 姫樋橋の位置には、鹿乗川にかかる樋があって、北東からのびる用水路がつながっていました。その用水路そのものか確証がないのですが、姫下遺跡06C区では江戸時代の溝(020SDなど)が検出されています。

姫下06
▲画像01 北からみた姫下遺跡06C区全景

 ところで、06C区の旧河道では、黒色粘土層の中に木製品や流木が折り重なって堆積していました。画像はまだ調査開始当初のもので、木の一部が姿をあらわしつつあります。そしてその向こう側には捨てられた土器破片がベルトのようにのびているのが見えています。土器は、弥生時代後期から古墳時代前期のものですが、当時の川岸があった場所を示していると考えてよいでしょう。

姫下古墳
▲画像02 南東側からみた旧河道と姫小川古墳

 この地点で、土器を川岸に捨てた人々の集落は、その後ろである旧河道南東側に想定されます。河道の両脇には、地理学的に自然堤防とよぶ微高地が一定範囲に広がっています。その微高地を選んで集落地としていたと考えられるのです。しかしながら画像にあるとおり、河道南東側では顕著な遺構は検出されませんでした。比較的古い時期に全体が削られてしまったようです。

集落跡
▲画像03 姫下遺跡の旧河道と古墳時代集落の推定範囲(北から)

 一方、河道の北西側(05A・05B区)では竪穴建物や掘立柱建物が検出されています。その範囲は05A区の南半部までで、そこから北側は、後背湿地とよぶ低い場所が広がっています。画像では集落のおおよその範囲を示しましたが、ここでも姫下橋(手前)、姫樋橋(奥)が台地と集落のある自然堤防をつなぐような位置関係にあるのが注目されます。


11/1/2012

鹿乗川の橋と遺跡をめぐる(9)

Filed under: - palace @ 8:45 am

◎調査課の永井邦仁です。

姫樋橋
▲画像01 平成18年当時の姫樋橋

 ついに姫樋橋(ひめといばし)に来ました!これを紹介したくて橋めぐりをしてきたようなものです。加美橋から北へ進むと小さな木橋に遭遇します。地元の方はおなじみでしょうが、平成18年度の冬、姫下遺跡06C区の調査時に初めてみたときは感動しました。歩くと、ゴトンギシときしむ音がちょっとスリルがありました。竣工は平成7年と記されていましたが、それ以前はどうだったのでしょうか?ご教示いただければと思います。

姫樋橋2
▲画像02 平成18年当時の姫樋橋から東をのぞむ

 姫下遺跡06C区は、橋のすぐ東に位置していて、旧河道を調査しながら何度も渡っては木橋の感触を堪能したものですが、経年の痛みが各所にあったので少々心配な橋でした。その後しばらく立ち寄らない間に橋桁などが改修されて、今は安心して渡ることができます。

姫樋橋3
▲画像03 現在の姫樋橋

 さて、名前の由来になった樋ですが、天保3年(1832)の小川村絵図には、鹿乗川の北東方向から引かれた用水路を、樋で川の西側へ越していることが記されています。この当時は、谷地形が残っていて水田になっており、谷奥には溜池もあったようですが、わざわざ樋をかけて用水を引き込んでいます。同様の樋は加美橋の南側にもあったようです。

姫樋橋4
▲画像04 幕末の小川村絵図にみる樋の位置

 さて、いつ鹿乗川が村絵図のように直線化されたのか?実はまだよくわかっていません。しかし姫下遺跡では、その旧河道の一部が検出されています。この河道は古墳時代後期にはほとんど埋もれてしまいますが、古墳時代前期には水があったようです。このようにかつての鹿乗川は、蛇行しさらにいくつかの河道に分かれていたと考えられます。姫下遺跡では河道の両岸に古墳時代前期の集落が展開し、その北西台地上に姫小川古墳が築かれる、という景観だったとみられます。

姫樋橋5
▲画像05 古墳時代前期の姫下遺跡(『姫下遺跡』調査報告書より作成)


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