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愛知県埋蔵文化財センター  - 公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団

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my weblog : 201112

12/26/2011

惣作遺跡 調査速報 その1

Filed under: - palace @ 10:07 am

調査課の永井邦仁です。

 安城市・惣作遺跡での発掘調査は、11A 区での調査が大詰めを迎えています。調査地点は、これまで鹿乗川と用水路の間となっていた「中堤」と呼ばれる箇所です。まさに川の真横ですから、「こんな所に遺跡が?」と思われるかもしれませんが、鹿乗川が現在の流路になったのはそう古いことではなかったらしく、11A 区では古代の集落や中世の水田が遺構として検出されています。

古代
▲古代の集落遺構検出面(白線は画像加工しています)

 奈良時代以前には、流路が遺跡の中をほぼ東西方向に走っていたことがこれまでの調査で判明しています。つまりこの付近で川は大きく蛇行していたとみられます。11A 区では、その流路北岸の自然堤防(砂が堆積した微高地)上で複数の竪穴建物跡を検出しました。時期は奈良時代から平安時代前期(8 〜 9 世紀)と考えられます。

中世
▲中世の水田遺構検出面(白線は画像加工しています)

 平安時代中期以降は集落がなくなりますが、その後、自然堤防北側の湿地帯を中心に水田が営まれたとみられ、黒色粘土層の中で畦畔状の遺構が検出されています。その少し上から灰釉陶器や山茶碗が出土しているので、時期は平安時代後期から中世前半と考えられます。

近世
▲近世の遺構検出面

 黒色粘土層の上には厚い青灰色粘土層が堆積しています。遺物はわずかですが、近世の陶磁器や漆椀が出土しており、江戸時代には鹿乗川が現在の流路となって周辺の堆積が進んだものと考えられます。その川辺で竹や木杭を打ち込んだり大きな穴を掘って再び埋め戻した跡が確認されています。

 ところで、古代以前の流路について、11A 区でもその一部が検出されています。ここからは木製品の出土も期待されますが、調査は年明けから再開する予定です。


12/9/2011

清洲城下町遺跡 調査速報 その3

Filed under: - palace @ 8:45 am

調査課の鈴木正貴です。

 この9月から清須市に所在する清洲城下町遺跡の発掘調査を行っており、現在は11B区の調査を終えて11C区の掘削を進めています。去る11月5日には、11B区の発掘調査の途中経過をみていただく地元説明会を開催いたしましたが、その11B区の調査がようやく一区切りつきましたので、今回はその概要を報告します。

11B区でも、11A区と同じように、結果的には4面の遺構面で発掘調査を行いました。

3-1
▲写真3-1
 1面では、城下町期後期(16 世紀末〜17 世紀初頭)の町屋の遺構が確認されました(その様子は 現説資料 の遺構配置図をご覧下さい)。ほぼ南北方向に向く溝4条、井戸群、柱を穴に埋めて建てる掘立柱建物跡4棟、埋設された甕1基、埋設された巨石、焼土や炭化物が多く含まれるゴミ穴などが見つかりました。巨石は表面が摩耗したり、焼けたり、溶けた滓が付着したものがあり、金床石だったかも知れません。

3-2
▲写真3-2
 2面では、城下町期前期後半〜後期(16 世紀中頃〜16 世紀末)の町屋の遺構が確認されました。屋敷の中には浅く地面を掘り凹めて床面が硬く整地された竪穴状遺構(たてあなじょういこう)が見つかっています。そこには炉跡などの遺構があり、鉄製品を加工する時に発生する鉄滓(てっさい)が出土しました。

3-3
▲写真3-3
 3面では、町屋ができる前の城下町期前期(16 世紀前葉〜後葉)の遺構などが確認されました。中でも目立つのが、深さが1m 以上もある巨大な方形土坑群です。その目的は不明ですが、想像するに板で壁を保護して中で何らかの作業を行ったものでしょうか?炭化物や焼土や鉄滓が多量に出土する例もあります。巨大方形土坑群がない部分では、竪穴状遺構が分布していました。さらに少し前(16 世紀前葉)の遺構としては、溝が2条確認されました。

3-4
▲写真3-4
 4面では、平安時代から城下町期前期(10 世紀〜16 世紀前半まで)を中心とした遺構や遺物が発見されました。巨大方形土坑群のために、古い時期の遺構はあまりよく残っていませんが、大溝が1条確認されました。

 11B区では、11A区と同様に鉄滓が多量に出土していますが、それに加えて、金床石かも知れない埋設石、炉跡、炉跡を伴う竪穴状遺構、鋳型片など金属生産に関わる多様な遺構や遺物が確認されました。こうしたことから、少なくとも16 世紀中頃からこの地点ではさかんに金属生産が行われ、16 世紀後葉にはその職人が集住した町屋が存在したことが想定されます。清須城下町の鍛冶屋町があった可能性が高くなったといえましょう。


12/7/2011

大平本城跡 調査速報 その4

Filed under: - palace @ 8:45 am

 調査課の池本です。

 先日大平本城跡の調査が終了しました。
 前回は調査で二本の土塁に挟まれた平坦面が確認できた事を紹介しました。調査の終盤でこれを断ち割った結果、谷側の一部に整地層が観察できました。今回確認できた平坦面は、山側では自然の斜面をある程度削り込んで面積を得ながら壁面を切岸とし、たぶんその時の排土を谷側に積むことでこれをさらに拡張したものと考えられます。整地層の下からは16 世紀後半に属する擂鉢片が出土しています。

整地層
▲整地層

 調査終了後の12 月3 日(土)には、成果報告会を開催しました。参加者は地元の方々を中心に40 名でした。どうもありがとうございました。説明会の資料は こちらからダウンロードできます。

説明会1
▲説明会

パネル
▲パネル等の展示


12/5/2011

鹿乗川の橋と遺跡をめぐる(3)

Filed under: - palace @ 8:45 am

調査課の永井邦仁です。

 岩根上橋から鹿乗川の西岸、碧海台地の縁を北へのびる砂利道を行くと、巨大な橋とパイプラインが頭上を横切る地点にたどり着きます。これが、県道292号石井幸田線の岩根橋です。この橋が架かる以前は、江戸時代の村絵図をみても橋はなかったようです。この点で、先に紹介した2つの橋とは事情が違うようです。

岩根橋
▲県道岩根橋とパイプライン

 この橋の真下には五反田遺跡があり、振り返って台地上には加美遺跡があります。加美遺跡は、県道建設工事に先立って当センターが昭和63年度に発掘調査をした遺跡です。古代・中世の集落と中世の墓が検出されています。

遺跡
▲県道岩根橋と五反田遺跡・加美遺跡(★印の地点で周溝墓検出)

 一方、五反田遺跡は平成22年度に当センターが発掘調査しましたが、古代・中世は溝が検出された程度で、明確な建物跡はみられませんでした。しかし、それをさかのぼる弥生時代末期から古墳時代初めの時期に、5基以上の方形周溝墓がつくられていたことが判明しました。勾玉などの副葬品も出土しています。

五反田遺跡
▲五反田遺跡10A区の方形周溝墓群(地元説明会資料より)

 興味深いのは、加美遺跡の東端でも方形周溝墓が2基みつかっていることです。こちらは弥生時代中期後葉とされているので、五反田遺跡の方形周溝墓より古い時期となります。ただし両遺跡ともに、同時期の集落遺構は検出されておらず、弥生時代を通じて墓場となっていた可能性が考えられます。

加美遺跡
▲加美遺跡の方形周溝墓(報告書より再構成)

 ちょうどその頃の川の流路は、五反田遺跡の東側を廻っており、台地縁から沖積地までが連続する地形だったと考えられます。このような地形環境が、遺跡の展開や現・鹿乗川流路に架かる橋の有無に関係しているのかもしれません。


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