清洲城下町遺跡 調査速報
*調査課の奥野です。
愛知県埋蔵文化財センターでは、助七西市場線の整備に伴い、清洲城下町遺跡の発掘調査を平成22 年5 月から8月にかけて行いました。
調査成果の概要を、以下に報告致します。
▲調査区位置図
■清洲城下町遺跡の歴史
「清須城」は応永12(1405) 年頃、尾張の守護である斯波氏によって築かれました。
歴代の城主には、弘治元(1555) 年に入城した織田信長や、豊臣秀次・福島正則などがいます。
天正14(1586) 年に、城下町は天正大地震により被災し、壊滅的な打撃を受けました。当時城主であった織田信雄(のぶかつ)は城下町の大改修を行い、天守閣や堀を備えた「清須城」を完成させました。
慶長18(1613) 年には、名古屋城が完成したことで清須城は廃城となります。その後、清須には美濃街道の宿場町として清須宿が設置され、尾張三宿として栄えました。
※ 本HP のこちらのページでも、清須城下町遺跡についての解説があります。
[[ 信長が夢見た城下町 ]]
■本年度の調査からわかったこと
今年度に発掘調査を行ったのは、名鉄新清洲駅の北東約500m、五条川右岸に位置する面積約800 ㎡の調査区(10A・B 区) です。過去の調査で、周辺から城下町期の武家屋敷や町家の跡が見つかっている地区にあたります。
以下に今回の調査成果の概要を述べます。
▲発掘調査風景
( 城下町期頃)
明確な建物跡は少なく、天正地震によって出来たと思われる噴砂痕や、河川の氾濫によって運ばれてきたと思われる堆積物が確認できました。
城下町期頃の調査区付近は、五条川から氾濫した水に襲われる不安定な場所であったと考えられます。
( 宿場町期〜現在)
宿場町期頃になると、調査区付近は比較的安定した場所になったようです。幾度かにわたって整地が行われた痕跡が確認できました。
街道に面した調査区西側のA 区を中心に、数多くの遺構や遺物が見つかりました。中でも注目すべきは、近世の大型建物跡です。
▲大型建物跡(赤破線が礎石が出た柱穴)
この建物の柱坑は一辺が約150cm ある四角形であり、中に大小の石を配置して、柱をおく礎石にしています。
▲石を配置した礎石
そのほかにも、建物の礎石や井戸( 写真4)、陶器や土器をまとめて捨てた穴など、多くの生活の跡が見つかりました。近世から現代にかけて何度も建物の立て替えを行い、たくさんの人がこの場所で生活をしていたと思われます。
▲井戸( 宿場町期)
▲天目茶碗( 城下町期)
今回の調査によって、清須城の城下町に住む人々が自然の脅威と戦いつつも、この土地を改良し、町として発展させていったたくましい姿が明らかとなりました。