1 名 称:鹿の絵画土器
2 出土場所:一色青海遺跡(稲沢市一色青海町)
3 大きさ・形状等
復元径:5.2cm 残存高9.0cm
鹿の絵は、筒形土器と呼ばれる砲弾形を呈する土器の外面に描かれていました。口縁部と底部は欠損していますが、本来は、口縁部を斜めに切り落としたような形状であった可能性が高く、底部はおそらく丸底とおもわれます。
鹿の絵は体部外面に、縦方向に6頭、頭部を右にして描かれています。土器を焼く前に、まず、浅く線刻で下書きをおこない、その上から、同じく焼成前に、ベンガラを用いて面的に塗っています。胴部より尻尾にかけては、器面の剥落が著しく、遺存状況は悪いのですが、上の2頭に関しては、線刻が比較的よく残っています。
線刻は、通常の線刻土器よりもかなり浅いことから、当初からベンガラを塗ることを想定して、下書きとして描かれていたようです。頭部は耳あるいは角をV字に描いたのち、鼻先を描いています。頸部は1本線、胴部は2本線で表現し、胴部を描いたのちに、足を描いています。
ベンガラを塗った工具は不明ですが、面的にある程度の幅をもって描かれていることから、筆状のものを使用していた可能性が高いと考えています。
4 出土の経緯
一色青海遺跡の調査において平成21年12月15日に出土しました。その後、独立行政法人奈良文化財研究所都城発掘部副部長 深澤 芳樹 (ふかざわ よしき )氏に鑑定をお願いしました。また、同様の類例の収集を行っています。
5 出土状況
(1)遺跡の概要
一色青海遺跡は愛知県の北西部、稲沢市のほぼ中央に位置する稲沢市一色青海町に所在し、東は三宅川、西は日光川にはさまれた沖積低地に立地しています。おもに日光川上流浄化センターの施設建設にともなって、平成3年度以来、愛知県埋蔵文化財センターが断続的に発掘調査をおこなっており、平成21年度までに合計36,124m2
を調査しています。
遺跡の所属時期は、弥生時代と鎌倉~戦国時代の2時期に大きく分けられます。弥生時代の遺構は中期後葉(紀元前1世紀頃)に限定され、それ以前、それ以降とも人が居住した形跡は全くみられません。ただし、一色青海遺跡の東には野口北出(のぐちきたで)遺跡(弥生前~中期中葉)、南には須ヶ谷(すがたに)遺跡(縄文晩期末~弥生中期中葉) があり、これらの集落の居住者が一色青海遺跡の成立に関わったと考えられます。遺跡は、北西から南東に流れる河道によって形成された、東西約300m、南北約70mのU字形を呈する幅の狭い微高地上に展開しており、おおむね東に方形周溝墓群、西に居住域が広がっています。
居住域では、これまでの調査で約270棟の竪穴建物、約30棟の掘立柱建物を確認しています。このうち、平成15年度の調査(03A区)で確認した掘立柱建物SB017は、南北(桁行)17.6m、東西(梁間)5.1m、床面積89.8平方メートルを測る巨大なもので、弥生中期後葉としては、東日本で最大級の掘立柱建物です。
(2)出土状況
今回展示する鹿の絵を描いた絵画土器は、平成21年度に調査を行った、09B区の大型土坑1257SKから出土しました。この1257SK周辺には、掘立柱建物5棟と大型土坑群約20基が集中しています。うち、掘立柱建物1773SBと1752SBは、柵列1772SAとともに一定の規格で建てられていることから、これらは同時併存していた可能性が高いと思われます。このうち、2×2間の総柱建物1752SBは、重複する4棟の竪穴建物が廃絶したのちに築かれていることから、2棟の掘立柱建物は、集落存続期間のなかでも後半に属することは確実です。また、4×1間の掘立柱建物1773SBは、北西隅から2番目の柱穴が、1257SKと同規模の大型土坑に切られています。これらのことから、1257SKは、間接的ではありますが、これら掘立柱建物群よりも新しく、集落存続期間のうちでも最終段階に近い時期に掘削されたと考えています。
6 意 義
弥生時代の絵画土器はこれまで600例ほどあり、そのうちの4割が鹿の絵です。ただし、鹿に限らず、これまで出土している絵画土器のほとんどは、線刻によるものであり、線刻の上に顔料を塗ったものは、福岡県朝倉郡夜須町(現・筑前町)の大木遺跡から出土した92号甕棺(弥生中期前葉)の口縁部付近に描かれた、線刻の鹿に黒色物質を塗った1例のみです。
今回の一色青海遺跡出土例は、顔料による弥生時代の絵画土器としては2例目であり、ベンガラを用いたものとしては、全国で初例となります。愛知県内では、これまで鹿の絵画土器・土製品は7例(本例で8例目)が知られています。このうち、朝日遺跡VIIIの報告書に掲載されたものは、筒形土器という点で、今回の出土例と共通しています。
一色青海遺跡でも、平成15年度の調査で、03B区SK0750から線刻で鹿を描いた土製垂飾が出土しており、絵画資料としても、鹿の絵としても、今回が2例目となります。
弥生時代の鹿の絵は、弥生前期末に北部九州で出現し、中期には特に近畿地方で盛行することがわかっています。描き方としては、頸部から尻尾までをすべて1本の線刻で表現するものが型式的に最も古く、その後、胴部を2本線で描くようになり、のちには頸部まで2本線となります。頭部は、耳あるいは角をV字に描き、鼻を1本の別の線で描くのが古く、のちにはこれがつながるようになります。
一色青海遺跡出土の鹿の絵は、前回・今回ともに、頸部は1本線、胴部は2本線で描いており、頭部は鼻を別に描いていることから、比較的古い要素を留めています。 東日本で最大級の掘立柱建物です。