◎調査課の伊奈です。
11月21日(土)に開催しました瀬戸市上品野町の桑下城跡地元説明会には大勢の方々に足を運んでいたき、ありがとうございました。9月から始まった今年度の発掘調査も1月で無事に終了しました。今回はその後の調査結果を中心に報告します。
▲調査区遠景
【調査概況】
尾根上の曲輪(くるわ:城の中の平場)東西2カ所で大溝が見つかりました。大溝は底面の幅70cm程の箱堀で、形状から通路とも考えられます。溝の西端では、この溝を埋めた後に掘削された溝から土留めと考えられる石組みが見つかりました。また、この大溝が途切れる辺りから柵列と考えられる穴がコの字状に展開しています。
▲尾根上の大溝と柵列跡
調査区南側の大きな曲輪中央部分で火災が起きたと考えられる焼土や被熱した石が出土し、火災後の整地面(第1面)、焼土が広がる面(第2面)、築城当初と考えられる面(第3面)を確認しました。地元説明会では第1面の概要を報告しました。
< <第1面>>
曲輪中央で南北方向に走る石組みの溝が見つかり、溝からは鳥形水滴、猪形水滴、合子(ごうす)などが出土しました。また、部分的に石が組まれたL字状の溝も見つかり、溝の中は焼土や炭化物で埋まっていて直接火を受けたと思われる部分もありました。北東部分では石組みの井戸も見つかっています。出土遺物は豆天目、茶入、水滴などの大窯(おおがま)製品の他、茶臼、鉄製刀子(とうす)、ガラス製数珠玉(じゅずだま)、中国産染付碗などが出土しています。
▲地元説明会 南側曲輪の第1面
▲石組みの井戸
< <第2面>>
南側は1m以上の盛土がされており、曲輪全体で大規模な造成が行われたことが分かりました。中央部分に焼土が広がっており、火災が起きたと考えられます。
焼土の広がりの北西部分でL字状の溝が、中央部分でも別の溝が見つかりました。
中央部分の溝の中は焼土塊が多数埋まっており、溝の底部から鳥形水滴や匣鉢(さやばち)、銅製金具が出土しました。また、この溝の東側の焼土層から豆天目が、南側の炭化物集積部分から兜の一部である鍬形台(くわがただい)が出土しました。発掘調査で鍬形台が見つかることは大変珍しいことです。西隣の曲輪との境で古い時期の特徴を持った石垣も見つかっています。
出土遺物は、第1面・第2面共に内耳鍋などの日常生活用具はあまり出土しませんでした。このことから、この曲輪は日常生活とは異なる特殊な空間だったとも推測できます。
▲南側曲輪 焼土の広がり(第2面)
▲南側の曲輪の出土遺物(水滴、合子、豆天目)
▲鍬形台
▲鍬形台の毛彫り
< <第3面>>
曲輪のほぼ中央で南北方向へつながる約3mの石列が見つかりました。この石列の東側は南方向へと大きく落ち込んでおり、西側は溝や柵列が隣の曲輪へと続いていて一体の平場だったと考えられます。
出土遺物は平碗、直縁大皿、耳付水注、卸目付大皿、天目台など古瀬戸製品が多く、他には東濃型山茶碗や中国産染付碗も出土しています。
▲石垣と溝、柵列跡
▲南側曲輪 第3面
< <その他>>
桑下城築城以前と考えられる大きな穴が複数見つかりました。これらは地山を掘り抜き底面中央に小穴を伴っており、縄文時代の陥穴(おとしあな)と考えられます。陥穴の1つからは石鏃(石のやじり)が、南側の曲輪からは旧石器時代の細石核(さいせっかく)という石刃(石器)の元になる部分が出土しました。
以上、4回に及ぶ調査によって桑下城の性格が明らかになってきました。本丸周辺は大規模に改造されており、侵攻勢力である松平氏や今川氏の関与がうかがわれます。これに対して、従来城外とされていた本丸西側の小曲輪群は築城当初の形状が残り、在地領主である永井(長江)氏の居城域であった可能性が高まりました。このように、有力大名が在地領主の館城(やかたじろ)に入って新たな城を形成した例として城郭研究にとって大きな成果を残すことができました。今後も調査研究を進めていきたいと考えています。