歴史講座『海部の考古学』第4回のおしらせ
○調査課の永井邦仁です。
10月17日(土)午後1時からの歴史講座『海部の考古学』第4回は「海部の古代寺院」です。今回は内容を少しだけご案内。
海部郡の古代寺院といえば、あま市の甚目寺が最も有名ですね。推古朝(6世紀末)に、海で漁をしていた甚目龍麻呂の網に観音像がかかり、それを祀ったのが寺の始まり、という伝承があります。つまり当時の甚目寺は海に近かった、と。
甚目寺付近の大渕遺跡では、網漁に使った管状土錘が多数出土していますので、確かに海は近かったと思われるのですが、当時の具体的な海岸線が復元できる段階には至っていません。ですが、古代寺院や集落遺跡の分布状況からおおよその推定は可能だと考えられます。遺跡の分布は調査の頻度にもよるので、一概には言えないのですが、上の図をみると甚目寺から西方へ帯状に古代寺院の分布がみられるほか、愛西市佐屋付近と名古屋市中村区の一部で遺跡の密度が濃くなっている点に注目されます。前者は古代東海道沿線という立地を反映し、後者はひょっとしたら河口付近の「島」だったのかもしれません。
尾張国海部郡は、東の愛智郡と西の伊勢国桑名郡という二つの台地・丘陵地に挟まれた低地に所在し、大河川の河口が集中しています。古代東海道はそれらを渡河しつつ両台地・丘陵地を結んでいました。実はこれと似たところが、武蔵国豊嶋郡と下総国葛飾郡の間にもあります(東京低地)。ここでは、漁労活動をしていた古代集落遺跡がいくつも見つかっていますが、甚目寺のような寺院遺跡はないようです。このような違いはどうして出てきたのでしょう?一方で、東京都台東区・浅草寺も、考古学的には中世までしかさかのぼれませんが、伝承によれば推古朝に檜前広成らの網にかかった観音像を祀ったのが始まりだとされています。これは甚目寺と似ていて興味深いですね。このように比較していくとさまざまな発見があります。
さて愛西市には、尾張国最西端の古代寺院である宗玄坊廃寺が所在します。木曽川まであとわずか、というところにあり、少し離れたところからみると微高地に立地していることがわかります。古代の瓦が出土していて、7世紀後半の寺院と推定されています。
【画像6】西方の養老山地、その南端に多度大社と榎撫駅推定地(柚井遺跡)
古代東海道は馬津駅(まつのうまや)から舟で伊勢国側の榎撫駅(えなつのうまや)へつながっています。馬津駅は愛西市町方町松川に推定されていて、宗玄坊廃寺はそこから南へ約2kmの地点になります。民間の人々は、ここからも伊勢国桑名郡へ舟を出していたことと想像されます。
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