北丹波・東流遺跡2018年度の調査成果
調査課の永井宏幸です。8月で調査が終了しました稲沢市北丹波(きたたんば)・東流(ひがしながれ)遺跡の調査成果を紹介します。
今回の調査地点は昨年度に引き続き、県道190号線の下を調査しました。現在歩道になっている地点は2015年度までに終了したので、これらをつなぐ成果を予想しながら進めていました。ところが、発掘調査は予想通り進まないものですね。10mも離れていない地点でありながら溝の続きが確認できなかったり、水田跡が出てこなかったり、予想とは随分違う結果になりました。
まず、全調査区の3/4近くは近現代以降の水田であったようです。水田は20cm前後の耕作土が80mにわたり続いていました。この調査区中央部分の約40mはほとんど遺物がなく、水田の下に鎌倉時代の河道がありました。
次に調査区の南端部分ですが、これまでの調査地点と比べて、非常に良好な地点でした。成果としては、鎌倉時代初頭(約800年前)の溝と井戸、奈良時代初頭(約1300年前)の竪穴建物、飛鳥時代(約1400年前)の竪穴建物、古墳時代前期(約1800年前)の水田が見つかっています。なかでも2平米前後の小さい区画の水田が1枚単位で確認できたことは注目できます。広い水田に隅々まで水を配ることは高い技術が必要です。ですから、古い時代の水田は小さい区画が多いのです。
調査区の北側を紹介します。鎌倉時代初頭を中心とする遺構は、溝や井戸など周辺の地点と同様な遺構群が展開していました。なかでも調査区を南北方向に延びる幅2m、深さ1m前後の大溝は北東側(12Fa区)から続く溝で、遺跡を大きく区画する重要な溝だと思われます。遺物は完形品に近い椀や皿が多く、「大」「上」など墨書で文字を書いた器も多く見つかっています。南端の井戸からも出土しましたが、今回の調査は宋代(中国)の高級磁器、青磁・白磁が多く出土しました。青磁椀は調度品として一集落に数点ありますが、皿や小椀など様々な器種が揃っていることは稀です。北丹波・東流遺跡の鎌倉時代は少し階級の上位の人が居住していたかもしれません。
奈良時代初頭を中心とする遺構は、歩道部分から続く溝が今回の調査地点にどのように続くか、調査の課題でした。特に、「美濃」施印須恵器が出土した溝など、遺構の性格を裏付ける重要な発見が期待されました。調査区の両側で見つかった溝と同様に、南北あるいは東西を中心とした溝が今回の地点からも確認できました。ところがうまくつながりません。さて、どういうことでしょうか?今後溝の規模や方向を十分検討する必要はあります。現段階では次のように考えています。今回の地点で確認した溝は直線に延びる溝ばかりではなく、直角に屈曲する溝や途中で途切れる溝がありました。水田に伴う農水路であれば大溝と小溝がつながり溝の役割を想定できます。農水路ではないとすると、鎌倉時代のように敷地を区画する溝の可能性があります。奈良時代初頭は竪穴建物が立ち並ぶ集落が一般に想定されていますが、敷地を区画する溝はありません。溝などで囲まれた敷地は寺院や官衙(かんが)(役所)など当時の中心的な建物があったとされています。ということは、北丹波・東流遺跡は尾張国府があった。そう簡単には断定できません。国府と推定されるには政庁や正倉院などの建物、瓦や「厨(くりや)」などの墨書土器、木簡(もっかん)、硯などが数点ではなく多量に、しかも集中して出土する地点がなくては断定できません。
今回の調査でも「美濃」施印須恵器が1点出土し、合計5点になり、716(霊亀2)年、笠朝臣麻呂が美濃国司と尾張国司を兼任した時期を中心とする遺構と遺物が集中する遺跡だと追認できました。さらにこの場所が国司館である、東海道と東山道を結ぶ幻の「尾張路」である、と言いたくなるのですが、もう少し研究を進めていこうと思います。
最後に古墳時代ですが、調査区南端同様の小区画水田が一面に広がっている原風景を想像していました。ところが、調査区の中央に幅5m、深さ1m近い溝が見つかりました。この大溝、おそらく、遺跡の北端で見つかった大溝につながると想定でき、古墳時代初頭の水田地帯を支える基幹の農水路であると考えています。水路のそばに完形品の甕や壺などが出土しています。これらは農事に用いた道具の一部と考えられます。竪穴建物など居住施設がこの遺跡では見つかっていないことから、この地点周辺は田畑が広がる農地であったと考えられます。
10月から今年調査した整理作業が始まります。新たな成果がありましたら、またお知らせいたします。
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