愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第205集
野添遺跡
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(のぞえいせき)
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総括:
・野添遺跡の変遷
8〜9世紀
出土遺物では、8世紀を主体とした須恵器が確認された。掘立柱建物跡である
2100SB
の南側にて、10m以上の空間を挟んで、竪穴建物跡、掘立柱建物跡の可能性を持つ遺構が並んでおり、その空間には遺物集中
2099SU
が位置する。各遺構の基軸方向は、東西、南北にほぼ方向が合致する
2100SB
を除いて、約10° 前後西に振るものが多い。すなわち、方位に合わせた掘立柱建物2100SB、やや離れて近似する規模、形状、基軸方向の竪穴建物や掘立柱建物が同時期に存在していた可能性も考えられる。
これらの遺構の出土遺物では、
鉄製U字形刃先
が床面直上から出土している。この
鉄製U字形刃先
の、
X線CT断面画像
による解析では、板材の折り返しで生じる鍛接痕が明瞭にないことが判明した。 大きさは、一般的なサイズよりやや小さく、小型品よりはかなり大きいため、最初から実用品として作られたものではなく、特殊品の可能性がある。他に仏具の組み合わせも想定される須恵器や、装飾意識の強い大型の甕や脚付き盤が出土しているため、有力者層の公的な建物、居住空間であった可能性もある。
10〜11世紀
この時期の出土遺物はわずかだが、1019SK、1140SK、
2001SD
上層、
3001SD
上層などで、灰釉陶器が確認された。
12〜13世紀
規模の大きい溝が確認された。その推積物の断面では、流水、滞水などの痕跡は観察されてない。古代〜近世にかけての新旧の遺物が混在することから、長期間にわたり凹みが残っていた可能性が高く、繰り返しさらいながら利用されていたことも想定できる。
胎土分析
野添遺跡から出土した古代の土器と、豊橋市の他遺跡について、三河型と呼ばれる土器甕を主体として、胎土分析を行った。粘土の種類および砂粒素性について検討した結果、砂粒素性は深成岩類からなり、淡水成粘土を用いた胎土が多く、これまでの分析結果と共有した在地的な特徴が見られた。
東地下遺跡との相違
東下地遺跡は、標高差約10m の段丘崖直下に位置し、弥生時代以降の水田、中世の土壙墓、掘立柱建物跡などが確認されている。しかし、両遺跡の調査結果は連動性を判断できる材料が得られていない。
交通環境
野添遺跡は、
第39図
に示すように、近世以前の主要地方道であった「別所街道(中世の鎌倉街道と多くは重なる)」に沿っている。別所街道は、現在の愛知県豊橋市と長野県飯田市、伊那市方面につながる街道で、豊川を挟んで北側に併行する伊那街道とともにこの地方の重要な陸上交通路であった。この別所街道を北側に約800m 進むと、東西方向に通る「姫街道(古代の二見道と多くは重なる)」と交わる。この姫(二見)街道、別所(鎌倉)街道は、度々ルートを変えた古代の東海道とつながっており、中世の野添遺跡は、交通至便な場所であったと思われる。
結語
野添遺跡に近接する玉川面では、古代に該当する集落の調査例がない。南対岸の牛川面では、西浦遺跡、西側遺跡、浪ノ上遺跡などで古代の竪穴建物跡が確認されているため、これらの遺跡と野添遺跡との関連性を明らかにしてゆく必要があるであろう。旧三河国府や古代の東海道からも離れておらず、隣接地でもないことから、特殊なU 字形刃先が使用された公的な施設を想定したとしても、上級クラスではなく、公的機関とつながりのある集落、のような空間が想定できるかもしれない。