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2005年10月12日

考古学な古庭園散策 3

庭園を楽しんだのは誰か —名古屋城御屋形庭園(3)—

●調査課の鈴木です。
池(SX02)が発見された名古屋城三の丸遺跡02区は、国立病院機構名古屋医療センター(調査当時は国立名古屋病院)の敷地の中央部西側にあります。名古屋城二の丸の東側にあたるこの場所は、池のあった江戸時代はどんな場所だったのでしょうか?
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●名古屋城三の丸遺跡02区の位置

一般に、名古屋城三の丸では尾張藩徳川家の家臣たちの屋敷が広がっていたと言われています。しかし、全てが武家屋敷だったわけではありません。
 02区の場所は、名古屋城築城当初(慶長15(1610)年〜慶安4(1651)年)では、他の名古屋城三の丸地区と同様に、大身の家臣に与えられた屋敷地だったようです。『金城温古録』の「三之丸内邸宅古図」によれば、この付近は石川市正・一色竜雲・粟生将監の屋敷であったと考えられます。
 ところが、慶安2(1649)年に、初代藩主徳川義直の娘である京姫と八条宮智仁親王の第二王子幸丸との婚礼が決まり、石川市正たちは屋敷替えさせられ、慶安4(1651)年に御屋形の区画の原型ができあがりました。この幸丸(後の広幡忠幸)の屋敷は当時「東鉄門向屋敷」と呼ばれていました。その後、松平出雲守義昌や、2代藩主徳川光友の嫡子徳川綱誠が住み、綱誠が東隣の屋敷を取り込んで拡張した時にその屋敷が「御屋形」と呼ばれるようになりました。
 元禄6(1693)年〜元禄8(1695)年には、御屋形は2代藩主徳川光友の隠居所となり、以降幕末まで、御屋形では藩主ゆかりの人物が住んだり、評定所のメンバーが内輪の会合をする内寄合の場になったりしました。

●御屋形の変遷模式図
*こちらはQuickTime Movieファイルです。ご覧になるにはQuickTimeが必要です。

 さてそこで、以上のような御屋形の変遷と池(SX02)との関連について考えてみましょう。まず、池(SX02)が使われていた時期が問題です。池(SX02)は、築城当初の武家屋敷を区画する溝(例えばSD12)よりも新しいことは確実です。また、池が使われなくなって埋め立てられた土の中からは18世紀の陶磁器や瓦が出土しており、19世紀には埋め立てた堆積の上から地下室が作られていることが分かっています、このように様々な事情を検討すると、池(SX02)は17世紀末から18世紀初頭頃に作られ、18世紀の内に埋め立てられたものと推測されます。

 つまり、池(SX02)が作られたのは、御屋形に徳川光友が隠居した頃か、あるいはその前後の時期に相当することになります。現段階では、池(SX02)を作った人物を特定することは難しいのですが、尾張藩主にゆかりのある人物の屋敷にできたものであることは、ほぼ間違いがないと言えるでしょう。従って、池(SX02)に伴う庭園は、まさに「御屋形庭園」といってもよいものと考えられるわけです。

●池(SX02)の平面図
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