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2005年10月24日
鴛鴨の王墓
○調査課の赤塚です。
愛知県陶磁資料館の「愛知県埋蔵文化財センタ−展示コーナー」
名古屋城三の丸遺跡展に引き続いて、平成17年10月25日(火曜日)から平成18年7月まで「鴛鴨(おしかも)の王墓」展を行います。展示品は、豊田市の川原遺跡で、平成9年から10年にかけて、第2東名高速道路豊田ジャンクションに伴う発掘調査によって発見されました。弥生時代の墳丘墓を中心としたもので、全国的にも大変興味深い資料です。ぜひ、ご見学ください。

2005年10月21日
石膏ギブスでの取り上げ
○調査課の堀木です。
何の写真かおわかりになりますか?これは、石膏ギブスを使って取り上げた脆弱遺物のその後の状況です。脆弱遺物の取り上げは、入門講座ー保存処理編ーで紹介されています。取り上げてきた脆弱遺物から石膏ギブスをカッターナイフやはさみで切り取り、遺物を露出させた状況です。以前は脆弱遺物の取り上げに発砲ウレタン等を利用していましたが、ウレタンはゴミの量が多く重量もあり、取り上げ作業そのものが大掛かりなものとなってしまいました。その点、石膏ギブスはゴミの量も少なく手軽に利用できるので大変便利です。

2005年10月19日
考古学な古庭園散策 4
庭園は御屋形のどこにあったか —名古屋城御屋形庭園(4)—
●調査課の鈴木です。
御屋形庭園の池(SX02)が使われていた18世紀では、発掘調査で確認された他の遺構にどのようなものがあったでしょうか。
池(SX02)の南側と西側には、切石で積まれた石組溝が発見され、さらにその南には、建物の基礎構造の一部と推測される石列が確認されています。池(SX02)の南側は石組溝との間に12mくらいの空間があり、1〜2mくらいの不定形な穴がいくつか存在します。池(SX02)の東には地下室(SK94)があり、さらに東には巨大な廃棄土坑(SK01)が掘られていました。

●御屋形の時期の遺構配置
石組溝は、内法幅が60cm程度の大きさで、おそらく建物の周囲を巡る雨落ち溝ではないかと想定されます。石組溝は大きくL字状に折れ曲がっていますが、この溝に伴う建物は、石列の位置などをいろいろ検討してみると、折れ曲がった内側にあったのではなく、外側にあったと推測されます。もしそうならば、折れ曲がった石組溝の内側には、建物の存在しない空き地があったことになります。その空き地の北半分に池(SX02)があるわけです。
一方、池(SX02)の南側には1〜2mくらいの不定形な穴がありますが、その用途はよく分かっていません。しかし、想像をたくましくすれば、石が抜き取られた痕跡か、樹木が植えられていた痕跡などだったと考えることができます。だとすれば、池(SX02)の南側、すなわち北側から見た時に池の背景になる部分には、石組や樹木が配置されていたこととなります。
以上のことから見て、石組溝すなわち建物に囲まれた一辺が約25mの方形の空間が、池(SX02)に伴う庭園全体の範囲であると考えられます。
さて、この一辺が約25mの大きさを持つ庭園は御屋形の中でどのように位置づけられるのでしょうか。
残念ながら、発掘調査からはここまで知る手がかりは、そう簡単には見出すことができません。ここで、名古屋市蓬左文庫が所蔵している『御屋形御絵図』をもとに少し検討してみましょう。
この図は、描かれた内容からみて、貞享2(1685)年〜元禄6(1693)年に作成されたと考えられます。そして、御屋形は西側から順に大きく公的機能を持つ「表」と、住居に相当する「中奥」・「奥」、および女中の居住空間である「奥」の3つに分けられます。発掘調査地点をこの図に当てはめることはとても難しいのですが、おおよそ「表」の中央付近と推測されます。そして、さらに踏み込んでみれば、御屋形庭園は「表」の建物群の裏手か中庭に相当する可能性が考えられます。ただし、絵図に描かれた状況と実際に発見された遺構は合致しない部分が多く、一層慎重な検討が必要であると言えるでしょう。
●L字に折れ曲がった石組溝
●御屋形の時期の建物基礎の一部か?
●御屋形の内部(蓬左文庫所蔵『御屋形御絵図』をもとに作成)
2005年10月17日
新出土品展
○調査課の赤塚です。
今年度の埋蔵文化財展に合わせて、恒例になりました「新出土品展」を安城市歴史博物館で開催いたします。平成16年度に調査した遺跡を中心に、その速報展を予定しています。
さらに、今年度報告書の刊行に合わせて、2つの注目すべき遺跡を展示する予定です。
一つは瀬戸市の鴬窯跡で、室町時代の瀬戸窯を代表する資料です。その美しい灰釉の味わいをご堪能ください。
今一つは、豊田市の水入遺跡で、古墳時代中期の川港と想定できる貴重な資料です。矢作川と伴に暮す、人々の生活風景をイメージできれば最高です。

2005年10月14日
埋蔵文化財展キャラクター
○調査課の池本です。
先回に続き、埋蔵文化展のご案内です。
今回はメインキャラクターの紹介です。
本年度も展示にはメインキャラクターが登場します。碧海郡の国津神(くにつかみ)が、「問わず語り」するという手法をとりました。もちろん実際に信仰されている神ではなく、担当者が想像したものです。
キャラクターは『常陸国風土記』行方郡条に登場する『夜刀神(やつのかみ)』を参考にしました。夜刀神は湿原にすむ角を持つ蛇と説明されています。姿はマムシをベースとしました。また『常陸国風土記』では夜刀神が集団で登場していることから、統率する別のカミも想像して、これを老人の姿で表現してみました。
『常陸国風土記』行方郡条は古代の開発伝承ともいえる記述です。こうした伝承は、書物に編纂される段階でかなり脚色されているとする意見もあります。なお、角を持つ蛇は中国の書物にも登場しているようですが、今回はこうした問題を考慮してはいません。

2005年10月13日
埋蔵文化財展まであと2ヶ月
●調査課の池本です。
現在準備が進められている今年度の埋蔵文化展のご案内をいたします。

今年度は安城市歴史博物館で合同企画という形での開催となります。期間は12月17日〜2月19日です。
すでにお知らせしているように、今回の展示は、「畏(かしこ)きものたち」という題目で、信仰に関連した考古資料を中心に集めた展示となります。信仰心とか宗教心ではなく、宗教観とか信仰観について扱うもので、人間が自らを超越する存在にどのような形で接してきたのか、という点をテーマとしています。
今日、人間は万物の霊長を自負し、自らの領域を地球の外にまで拡大する勢いです。しかし、生活域の外側に闇が広がっていた時代には、人間は闇の中に自らを超越する様々な存在を想像し、「畏きものたち」として畏怖してきました。そしてそれらが人間に益を与え、害を及ぼさないように、いわばコントロールする方法を様々に画策しました。「祈り」とか「まじない」です。
現在、担当者全員で知恵を絞り、解りやすい展示を目指して試行錯誤中です。ご期待下さい。
2005年10月12日
考古学な古庭園散策 3
庭園を楽しんだのは誰か —名古屋城御屋形庭園(3)—
●調査課の鈴木です。
池(SX02)が発見された名古屋城三の丸遺跡02区は、国立病院機構名古屋医療センター(調査当時は国立名古屋病院)の敷地の中央部西側にあります。名古屋城二の丸の東側にあたるこの場所は、池のあった江戸時代はどんな場所だったのでしょうか?

●名古屋城三の丸遺跡02区の位置
一般に、名古屋城三の丸では尾張藩徳川家の家臣たちの屋敷が広がっていたと言われています。しかし、全てが武家屋敷だったわけではありません。
02区の場所は、名古屋城築城当初(慶長15(1610)年〜慶安4(1651)年)では、他の名古屋城三の丸地区と同様に、大身の家臣に与えられた屋敷地だったようです。『金城温古録』の「三之丸内邸宅古図」によれば、この付近は石川市正・一色竜雲・粟生将監の屋敷であったと考えられます。
ところが、慶安2(1649)年に、初代藩主徳川義直の娘である京姫と八条宮智仁親王の第二王子幸丸との婚礼が決まり、石川市正たちは屋敷替えさせられ、慶安4(1651)年に御屋形の区画の原型ができあがりました。この幸丸(後の広幡忠幸)の屋敷は当時「東鉄門向屋敷」と呼ばれていました。その後、松平出雲守義昌や、2代藩主徳川光友の嫡子徳川綱誠が住み、綱誠が東隣の屋敷を取り込んで拡張した時にその屋敷が「御屋形」と呼ばれるようになりました。
元禄6(1693)年〜元禄8(1695)年には、御屋形は2代藩主徳川光友の隠居所となり、以降幕末まで、御屋形では藩主ゆかりの人物が住んだり、評定所のメンバーが内輪の会合をする内寄合の場になったりしました。
●御屋形の変遷模式図
さてそこで、以上のような御屋形の変遷と池(SX02)との関連について考えてみましょう。まず、池(SX02)が使われていた時期が問題です。池(SX02)は、築城当初の武家屋敷を区画する溝(例えばSD12)よりも新しいことは確実です。また、池が使われなくなって埋め立てられた土の中からは18世紀の陶磁器や瓦が出土しており、19世紀には埋め立てた堆積の上から地下室が作られていることが分かっています、このように様々な事情を検討すると、池(SX02)は17世紀末から18世紀初頭頃に作られ、18世紀の内に埋め立てられたものと推測されます。
つまり、池(SX02)が作られたのは、御屋形に徳川光友が隠居した頃か、あるいはその前後の時期に相当することになります。現段階では、池(SX02)を作った人物を特定することは難しいのですが、尾張藩主にゆかりのある人物の屋敷にできたものであることは、ほぼ間違いがないと言えるでしょう。従って、池(SX02)に伴う庭園は、まさに「御屋形庭園」といってもよいものと考えられるわけです。
●池(SX02)の平面図

2005年10月05日
考古学な古庭園散策 2
池の構造は結構複雑 —名古屋城御屋形庭園(2)—
●調査課の鈴木です。
名古屋城三の丸遺跡02区で発見された池(SX02)は、大きく見れば一辺が約10mの四角い形となりますが、実際にはそんな単純な形ではありません。東面と西面には半島状に伸びた張り出し部が突き出ており、南西部には緩やかなスロープがあります。南面には石材が抜き取られたと思われる大きな穴がたくさんあり、一方で、北面は平坦な漆喰壁の斜面が広がっていたと考えられる状態でした。
こうした状態の違いは何を意味するのでしょうか?

●池(SX02)の北面の様子
日本の古庭園は自然などの風景を模して造形されることが多く、いくつかのパターンがあります。SX02の持っていた風景を復元してみましょう。
まず、SX02の北面は石組が埋め込まれた痕跡がなく、平板な漆喰壁で覆われていたことから、北面を積極的に見せる意図がないと考えられます。つまり、これを逆に考えると、SX02の北側から南に向いて観賞した池であると想定できます。
では、SX02の構造を北からみた風景に置き換えてみると、どうなるでしょう。正面(南面)には大きな石が埋め込まれた痕跡があり、右手の奥(南西部)には緩やかなスロープ、左右両側(東西両面)には半島状に張り出した岬がある、という形になります。張り出した岬は左右で雰囲気が異なっており、右側の岬には大小の石が埋め込まれた痕跡があり、左側の岬には白い玉石がちりばめられていました。
さらに、これを自然の風景に置き換えて想像してみると、どうなるでしょう。水の流れは右手の奥のスロープから左手の手前に向かっており、実際に北面の東端では排水溝らしい遺構が発見されました。その水の流れに沿って、正面にはおそらく築山と石組が、右側の岬には磯を表現した磯浜が、左側の岬には砂浜を表現した州浜が順に展開していることが分かるのです。
どうやら、池(SX02)は自然を模した庭園に伴うものと断定してもよさそうです。
●北から見た南面
正面に大きな石の抜き取り穴がいくつかあります。
●池の南西部
漆喰壁でつくられたスロープがあります。
●西側の岬
岬の周囲には石の抜き取り穴が並んでいます。
●東側の岬
岬の中腹では白い石で砂浜が表現されています。

寄島遺跡