2005年10月19日
考古学な古庭園散策 4
庭園は御屋形のどこにあったか —名古屋城御屋形庭園(4)—
●調査課の鈴木です。
御屋形庭園の池(SX02)が使われていた18世紀では、発掘調査で確認された他の遺構にどのようなものがあったでしょうか。
池(SX02)の南側と西側には、切石で積まれた石組溝が発見され、さらにその南には、建物の基礎構造の一部と推測される石列が確認されています。池(SX02)の南側は石組溝との間に12mくらいの空間があり、1〜2mくらいの不定形な穴がいくつか存在します。池(SX02)の東には地下室(SK94)があり、さらに東には巨大な廃棄土坑(SK01)が掘られていました。

●御屋形の時期の遺構配置
石組溝は、内法幅が60cm程度の大きさで、おそらく建物の周囲を巡る雨落ち溝ではないかと想定されます。石組溝は大きくL字状に折れ曲がっていますが、この溝に伴う建物は、石列の位置などをいろいろ検討してみると、折れ曲がった内側にあったのではなく、外側にあったと推測されます。もしそうならば、折れ曲がった石組溝の内側には、建物の存在しない空き地があったことになります。その空き地の北半分に池(SX02)があるわけです。
一方、池(SX02)の南側には1〜2mくらいの不定形な穴がありますが、その用途はよく分かっていません。しかし、想像をたくましくすれば、石が抜き取られた痕跡か、樹木が植えられていた痕跡などだったと考えることができます。だとすれば、池(SX02)の南側、すなわち北側から見た時に池の背景になる部分には、石組や樹木が配置されていたこととなります。
以上のことから見て、石組溝すなわち建物に囲まれた一辺が約25mの方形の空間が、池(SX02)に伴う庭園全体の範囲であると考えられます。
さて、この一辺が約25mの大きさを持つ庭園は御屋形の中でどのように位置づけられるのでしょうか。
残念ながら、発掘調査からはここまで知る手がかりは、そう簡単には見出すことができません。ここで、名古屋市蓬左文庫が所蔵している『御屋形御絵図』をもとに少し検討してみましょう。
この図は、描かれた内容からみて、貞享2(1685)年〜元禄6(1693)年に作成されたと考えられます。そして、御屋形は西側から順に大きく公的機能を持つ「表」と、住居に相当する「中奥」・「奥」、および女中の居住空間である「奥」の3つに分けられます。発掘調査地点をこの図に当てはめることはとても難しいのですが、おおよそ「表」の中央付近と推測されます。そして、さらに踏み込んでみれば、御屋形庭園は「表」の建物群の裏手か中庭に相当する可能性が考えられます。ただし、絵図に描かれた状況と実際に発見された遺構は合致しない部分が多く、一層慎重な検討が必要であると言えるでしょう。
●L字に折れ曲がった石組溝
●御屋形の時期の建物基礎の一部か?
●御屋形の内部(蓬左文庫所蔵『御屋形御絵図』をもとに作成)
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2005年10月12日
考古学な古庭園散策 3
庭園を楽しんだのは誰か —名古屋城御屋形庭園(3)—
●調査課の鈴木です。
池(SX02)が発見された名古屋城三の丸遺跡02区は、国立病院機構名古屋医療センター(調査当時は国立名古屋病院)の敷地の中央部西側にあります。名古屋城二の丸の東側にあたるこの場所は、池のあった江戸時代はどんな場所だったのでしょうか?

●名古屋城三の丸遺跡02区の位置
一般に、名古屋城三の丸では尾張藩徳川家の家臣たちの屋敷が広がっていたと言われています。しかし、全てが武家屋敷だったわけではありません。
02区の場所は、名古屋城築城当初(慶長15(1610)年〜慶安4(1651)年)では、他の名古屋城三の丸地区と同様に、大身の家臣に与えられた屋敷地だったようです。『金城温古録』の「三之丸内邸宅古図」によれば、この付近は石川市正・一色竜雲・粟生将監の屋敷であったと考えられます。
ところが、慶安2(1649)年に、初代藩主徳川義直の娘である京姫と八条宮智仁親王の第二王子幸丸との婚礼が決まり、石川市正たちは屋敷替えさせられ、慶安4(1651)年に御屋形の区画の原型ができあがりました。この幸丸(後の広幡忠幸)の屋敷は当時「東鉄門向屋敷」と呼ばれていました。その後、松平出雲守義昌や、2代藩主徳川光友の嫡子徳川綱誠が住み、綱誠が東隣の屋敷を取り込んで拡張した時にその屋敷が「御屋形」と呼ばれるようになりました。
元禄6(1693)年〜元禄8(1695)年には、御屋形は2代藩主徳川光友の隠居所となり、以降幕末まで、御屋形では藩主ゆかりの人物が住んだり、評定所のメンバーが内輪の会合をする内寄合の場になったりしました。
●御屋形の変遷模式図
さてそこで、以上のような御屋形の変遷と池(SX02)との関連について考えてみましょう。まず、池(SX02)が使われていた時期が問題です。池(SX02)は、築城当初の武家屋敷を区画する溝(例えばSD12)よりも新しいことは確実です。また、池が使われなくなって埋め立てられた土の中からは18世紀の陶磁器や瓦が出土しており、19世紀には埋め立てた堆積の上から地下室が作られていることが分かっています、このように様々な事情を検討すると、池(SX02)は17世紀末から18世紀初頭頃に作られ、18世紀の内に埋め立てられたものと推測されます。
つまり、池(SX02)が作られたのは、御屋形に徳川光友が隠居した頃か、あるいはその前後の時期に相当することになります。現段階では、池(SX02)を作った人物を特定することは難しいのですが、尾張藩主にゆかりのある人物の屋敷にできたものであることは、ほぼ間違いがないと言えるでしょう。従って、池(SX02)に伴う庭園は、まさに「御屋形庭園」といってもよいものと考えられるわけです。
●池(SX02)の平面図

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2005年10月05日
考古学な古庭園散策 2
池の構造は結構複雑 —名古屋城御屋形庭園(2)—
●調査課の鈴木です。
名古屋城三の丸遺跡02区で発見された池(SX02)は、大きく見れば一辺が約10mの四角い形となりますが、実際にはそんな単純な形ではありません。東面と西面には半島状に伸びた張り出し部が突き出ており、南西部には緩やかなスロープがあります。南面には石材が抜き取られたと思われる大きな穴がたくさんあり、一方で、北面は平坦な漆喰壁の斜面が広がっていたと考えられる状態でした。
こうした状態の違いは何を意味するのでしょうか?

●池(SX02)の北面の様子
日本の古庭園は自然などの風景を模して造形されることが多く、いくつかのパターンがあります。SX02の持っていた風景を復元してみましょう。
まず、SX02の北面は石組が埋め込まれた痕跡がなく、平板な漆喰壁で覆われていたことから、北面を積極的に見せる意図がないと考えられます。つまり、これを逆に考えると、SX02の北側から南に向いて観賞した池であると想定できます。
では、SX02の構造を北からみた風景に置き換えてみると、どうなるでしょう。正面(南面)には大きな石が埋め込まれた痕跡があり、右手の奥(南西部)には緩やかなスロープ、左右両側(東西両面)には半島状に張り出した岬がある、という形になります。張り出した岬は左右で雰囲気が異なっており、右側の岬には大小の石が埋め込まれた痕跡があり、左側の岬には白い玉石がちりばめられていました。
さらに、これを自然の風景に置き換えて想像してみると、どうなるでしょう。水の流れは右手の奥のスロープから左手の手前に向かっており、実際に北面の東端では排水溝らしい遺構が発見されました。その水の流れに沿って、正面にはおそらく築山と石組が、右側の岬には磯を表現した磯浜が、左側の岬には砂浜を表現した州浜が順に展開していることが分かるのです。
どうやら、池(SX02)は自然を模した庭園に伴うものと断定してもよさそうです。
●北から見た南面
正面に大きな石の抜き取り穴がいくつかあります。
●池の南西部
漆喰壁でつくられたスロープがあります。
●西側の岬
岬の周囲には石の抜き取り穴が並んでいます。
●東側の岬
岬の中腹では白い石で砂浜が表現されています。
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2005年09月28日
考古学な古庭園散策 1
池、発見! —名古屋城御屋形庭園(1)—
●調査課の鈴木です。
平成14(2002)年に行われた名古屋城三の丸遺跡の発掘調査で、江戸時代の庭園に伴う池(SX02)が発見されました。私にとっても、また愛知県埋蔵文化財センターにとっても、庭園遺構の調査はこの時が初めての体験でした。調査当初はよく分からないことが多かったのですが、専門家のご指導を得ながら調べていけばいくほど、この池には奥の深い世界が広がっていることが分かってきました。そして、いつの間にか、各地のお庭を見て歩く私の旅が始まってしまったのです(ちょっと大げさですが)。
これからしばらくは、庭園に伴う池(SX02)の姿を再現する謎解きについて、お話ししましょう。

●池(SX02):全体の様子
名古屋城三の丸遺跡02区で発見された池(SX02)は、一辺が約10mの四角い形で、深さが約1mの大きな穴です。
姿を現したその様子は、黄色をした地面が広がり、周囲には大小さまざまな穴がたくさん開いていました。一見、無味乾燥な雰囲気からは、とても庭園を思わせるようなイメージは浮かんできません。
しかし、これを詳細にみていくと、池の側面にはところどころに漆喰(しっくい)の壁が残っている様子が観察されました。漆喰の壁は、水漏れしないように石灰を混ぜた粘土で塗り固められたものです。この漆喰壁が壊された状態で発見されたので、SX02は水を溜めておく施設だということが分かりました。そして、SX02の南西部に巨石を1個据えて、その隙間が漆喰壁で覆われていた状態が確認されました。このことからみて、周囲にはあった大小さまざまな穴は、このような石材が抜き取られた痕跡ではないかと考えられました。
周囲に不規則に石がはめ込まれていた水を溜める施設とは何かと思い巡らすと、SX02は庭園に伴う池であったと考えることができるわけです。
●大小の穴
石が抜き取られた痕跡と考えられます。
●漆喰の壁
池の側面が漆喰で覆われた状態がところどころ残っています。
●巨石とその間を埋める漆喰の様子
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2005年06月07日
安土城考古博物館「王権と木製威信具」
調査課の樋上です。
6月5日まで滋賀県立安土城考古博物館にて、春季特別展「王権と木製威信具」が開催されていました。
当センターが調査しました、愛知県清洲町朝日遺跡出土の装飾付鉢や豊田市川原遺跡出土の琴などが出展いたしました。その記念講演会での発表要旨をご報告いたします。
「木製品の階層性」
ここでは特に、首長(王)が自らの権威を示すために手にした儀杖形木製品の系譜について、弥生前期から古墳中期までの出土例を全国的に概観しました。そのなかで、弥生時代の儀杖形木製品には棍棒や石棒形など、縄文時代の系譜を引くものが多いこと、古墳初頭には朝鮮半島南部の儀杖形鉄製品の影響を受けつつ、立ち飾りをもつ儀杖形木製品が出現し、そのカタチが木製品から石製品(玉杖・琴柱形石製品)・土製品など、様々に素材を変えつつ受け継がれていくことをお話しました。
これについては、近いうちに論文としてまとめる予定です。

5月29日(日曜日)
於 安土城考古博物館セミナールーム
時を測る
調査課の赤塚です。
名古屋大学博物館にて開催中の
特別展「時を測る」地球誕生から中世まで
その講演会(6月5日 日曜日)の内容をご報告いたします。
「邪馬台国時代の東海の風景」
名古屋大学加速器質量分析(AMS)研究の成果を受けて、邪馬台国時代の暦年代を50年ほどさかのぼらせて考えてみました。あくまで土器編年を基軸にしたものであり、暫定的なお話しです。すると、濃尾平野における邪馬台国の時代に相当する土器はS字甕に代表される「廻間II式」土器だということになります。この時代にはすでに大型の前方後方墳や、一宮市の八王子遺跡の大型方形区画のような特殊な遺構群が出現しており、当地域には一つの独自の文化が存在していたことが明白となってきました。
なお展示会は7月31日(日曜日)まで
年代測定に用いたS字甕などが展示されています。
2005年06月06日
東海の弥生フロンティア
調査課の赤塚です。
東名阪自動車道路の清洲東IC(愛知県西春日井郡清洲町)
この周辺には弥生時代の大集落「朝日遺跡」が所在します。
当埋蔵文化財センターが発掘調査しました素晴らしい出土品が
大阪府立弥生文化博物館で開催中の
「東海の弥生フロンティア」展で展示中です。
その他に一宮市の西上免古墳出土土器や
豊川市の麻生田大橋遺跡出土の土器棺など
6月26日まで開催。
私も図録に特別論考という事で参加させていただいてます。
また狗奴國のお話ですが・・・。

寄島遺跡